正月遊び

年中往事

 正月遊び

 正月の伝統的な遊びには次のようなものがあります。それぞれに意味や由来があります。縁起物の遊びもあり、遊びながら一年の繁栄を祈ることになります。一般的なやり方を簡単に紹介しましょう。

 正月遊びには、おもに外で遊ぶものと屋内で遊ぶものがあります。また主として男の子の遊びと女の子の遊びに分かれています。もちろん、どの遊びも、誰がどこでやっても構わないのですが、昔からのならいとしてそうなっています。また一人でもできるものと、大勢で一緒にやるものに別れています。

  まず、外遊びの代表的なものとして、男の子には、「凧揚げ」「独楽廻し」「面子」があります。女の子には「羽根突き」「手鞠」が挙げられます。古くからの正月遊びにはそれぞれ意味や由来があり、知っておくとこれまでとは違った楽しみ方ができます。屋内でできる遊び、屋外でできる遊びのいずれもさまざまな種類があり、家族や友人と一緒に楽しめます。

  

(1) 凧揚げ

 凧揚げは、凧揚げは骨組みに紙や布を張った凧と呼ばれる玩具を使い、風の力で空に浮かべる遊びで、古来中国では占いや戦いの道具だったと言われています。中国で最初に凧を作ったのは、後代に工匠の祭神として祭られる魯班とされています。魯班の凧は鳥形で、3日連続で上げ続けることができたといいます。ほぼ同時代の墨翟が紀元前4世紀に3年がかりで特別な凧を作った記録があります。魯班、墨翟のどちらの凧も軍事目的でした。

 日本では平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』に凧は紙鳶、として登場し、当初は豊作を祈る祭りとして、やがて貴族の遊戯となり、戦国時代には武士が通信手段として活用しました。

 一般庶民の間で盛んになったのは江戸時代のことです。日本の伝統的な和凧は竹の骨組みに和紙を張った凧です。長方形の角凧の他、六角形の六角凧、が手を広げたような形をしている奴凧など、各地方独特の様々な和凧が作られました。凧に弓状の「うなり」をつけ、ブンブンと音を鳴らせながら揚げることもありました。凧の安定度を増すために、と呼ばれる細長い紙(ビニールや竹の場合もある)を付けることがあります。尻尾は、真ん中に1本付ける場合と、両端に2本付ける場合があります。尻尾を付けると回転や横ぶれを防ぐことができ、真上に揚がるように制御しやすくなりました。遊びでも軍事目的でも、凧は高く遠くに飛ぶことを求めて工夫が繰り返されました。イカに形が似ていることから、「イカのぼり」とも呼ばれました。

 凧揚げは年々派手になり、大凧を揚げることが日本各地で流行り、浮世絵が描かれた鮮やかな凧や、店の屋号が入った凧など、子供から大人までたくさんの人々がこぞって凧を揚げるようになります。競技用の「ケンカ凧」には、 相手の凧の糸を切るためにガラスの粉を松脂などで糸にひいたり(長崎のビードロ引き)、刃を仕込んだ雁木を付けたりもしました。このため当時の長崎では、農作物などに被害を与えると幾度か禁止令が出されました。江戸の武家屋敷でも凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだったため、幕府も凧揚げ禁止令を出しました。いかのぼりが禁止されると、庶民の間では、「イカではなくタコだ」と言い張り、「タコ」と呼ばれるようになったともいわれています。

 明治時代以降、電線が増えるに従い、市中での凧揚げは減りましたが、正月や節句の子供の遊びや祭りの楽しみとして続いてきました。もともとは、年初めに両親が男子の出生を祝い、その健やかな成長を祈る儀礼として行われていたもので、願いごとを凧に乗せて天に届けるという意味もありました。下を向くより、空を見上げると健康に良いという意味で、「立春の季に空に向くは、養生のひとつ」という言葉もありました。「立春」とは「新年」を表し、暦の上の春である立春に空を見上げると健康に良いという意味です。今でも凧は様々な地域で縁起物として扱われています。占いとしての使われ方は既に分からなくなってしまいましたが、天高く飛ぶ様子から、立身出世を祈って凧を揚げる地域もあるようです。また、昔商人達が自分の店の宣伝のために凧を揚げていたことから、商売繁盛の意味も持つといわれています。新年に健康と活力を祈るものとして凧揚げをするようになったのです。

  (2)独楽廻し

独楽まわしは、奈良時代に中国から高麗(現在の朝鮮半島)を経て伝わり、宮中の年中行事の余興として行われていたものが、平安時代になって貴族の遊戯となり、平安後期に子供の遊び道具となり、江戸時代から庶民の遊びとなりました。 その名の由来は、高麗はかつて「こま」と呼ばれて奈良時代に唐から高麗(こま=韓国北西部)を経て伝来したので『こま』という名前になり、中国語表記の『独楽』の漢字が用いられたと言われています。

 こまは回り続ける姿が「物事が円滑に回る」に通じる事と、自律して倒れずに回り続ける姿が子供の自立を促すとされ、縁起の良いお正月の遊びとして親しまれてきました。

 (3)面子

 面子は絵や写真のある厚紙を地面に叩きつけ合い、風の力で裏返すなどして、相手の札をひっくり返す遊びです。相手の面子を裏返して自分のものにし、多くのめんこを獲得した方が勝ちとなります。

 面子は案外新しい遊びで、始まりは江戸時代だとされています。当時の面子は紙の札ではなく、人の顔型にした泥粘土が使われていました。粘土を焼いて作られた直径2〜3cmの玩具を割るまで打ちつけ合ったり、おはじきのようにして遊んだのです。そして、明治時代には鉛、大正時代には紙(段ボール)となり、今の面子の形になったのです。ちなみに、鉛の面子をぶつけ合って変形してしまうところから、変な顔のことを「おかちめんこ」と言うようになったのです。めんこは漢字で「面子」と書き、人の顔を意味します。

 面子は単なる遊びというだけではなく、魔除けの一種だったとされています。勢いよく地面に打ちつけられる音を聞くと、悪い物がどこかに飛んで行ってしまうような気にさせられます。

   (4)羽根突き

 羽根つきの由来は、「遊び」だとする説と羽根に硬貨をつけたものを蹴る遊びだとする二つの説があります。毬杖遊びは、7世紀頃から宮中で行われており、羽子板や羽根ではなく、先が「へら」のような形をした杖でを打ち合う遊びでした。この杖が変化して羽子板になったとされています。羽根に硬貨を付けた物を蹴る遊びというのは、14世紀頃の中国で行われていたものが室町時代に日本へ伝来したものとされています。どちらにしろ、もともと「邪気をはね(羽根)除ける」と言う意味で、年の初めに宮中で行ったのが始まりです。羽根をつく時の「カーンカーン」と言う音も、魔物が嫌う音と考えられていたようです。当時の貴族たちは正月に羽根つきをすることで、その年の無病息災を願ったのです。生まれた女の赤ちゃんに「魔除け」のための羽子板を贈る習慣も、すでに室町時代からあり、その頃から羽子板には、女の子の「厄除け」や「魔除け」の意味が込められていました。

 羽根にはムクロジという植物の実が使われていて、ムクロジは「無患子」【子(どもが)患(わ)無(い)】と書きます。そのため羽根つきは1年の厄をはね、子供の成長の無事を願うものとして、親しまれてきたのです。当初は子供の遊びではなく、大人の遊びだったものが子供の遊びに変わったのは、「蚊」が原因でした。今もかは厄介者ですが、昔は蚊に刺されることで病気にかかり、死んでしまう子供がたくさんいました。そんな蚊を食べてくれるのが「トンボ」です。羽根突きの羽根が飛ぶ様子がトンボに見えると考えた昔の人は、その年の夏に蚊に刺されないことを祈って、新年に羽根突きをするようになったのです。打ち損なって羽根を落とすと、顔に墨を塗られるというルールも、罰ゲームではなく、鬼が嫌う黒い色を魔除けのおまじないとして塗るものです。

  羽子板の形にも意味があります。羽根をつく部分は長方形ではなく、少し末広がりの形をしています。日本では昔から「末広がり」の形は、2つの意味で縁起の良いものとされてきました。一つは「末(未来)に広がっていく(発展していく)」と言う言葉の意味から、もう一つは、その形が漢数字の「八」に似ているところから来ています。「八」はその形が末広がりの象徴というだけでなく、「あらゆるもの」「数え切れない」と言う意味を持つ漢字なので、「八百万の神々」「八重桜」「八百屋」のように使われてきた数字です。

 このように、あえて末広がりに作られた羽子板は、縁起の良いものなのです。初正月を迎える女の子に羽子板を贈る由来は幾つかありますが、どれも女の子の健やかな成長を願う意味が込められています。

 室町時代の文安年間(1444年頃)の「」には、「正月に羽子板を用いた」という旨の記述があり、これが羽根突きのことだと言われています。さらに、「下学集」よりも12年古いによって書かれた「」にも、1432(永享4)年「正月五日に宮中で、こきの子勝負をした」との記載があります。「こきの子」とは羽子板のことだと言われており、宮中で女官などが男組と女組に分かれて羽根つきを行ったということが記録されています。この「看聞日記」には、足利将軍が年末に宮中へ羽子板を贈ったということも書かれています。この頃から羽子板は、「羽根つき用」と「飾り用」に分かれていきました。羽子板は、当初羽根突きの道具として用いられましたが、徐々に厄払いとしても使われるようになり、魔除けとして正月に女性にあげる習慣もこのころ出来たようです。羽子板は、女の子の健やかな成長を願う意味が込められていきました。現代においても、羽子板は運動・遊戯としての羽根突きに使われる実用品と、厄除けや美術品の両方が作られています。アメリカで試験販売が好評だったことから、欧米への輸出を目指す製作会社もあります。「江戸押絵羽子板」は東京都により伝統工芸品に指定されています。

 時代により、様々な流行がありましたが、現在、店頭でよく見かける羽子板と言えば、華やかに作られた「押絵羽子板」です。この押絵羽子板の産地としては、埼玉県の春日部市や東玉のある「人形のまち岩槻」が有名です。

 最近では変わり種の羽子板も販売されていますが、女の子の初正月の贈りものとしては、やはり伝統的な絵柄のものがよく選ばれています。特に美しい女性の絵柄の羽子板が好まれるのは、きっと「女の子には美しく育って欲しい」と言う親心からでしょう。

  (5)手鞠

 手鞠は中国のが起源だと言われています。平安時代には貴族の遊戯として広まりました。当時の鞠は鹿革製でした。江戸時代になると、織り糸の端を利用して作られた手鞠が流行し、染め色が美しいことから女の子に贈る風習ができたということです。俳句では「新年」の季語とされています。長い糸を使って作られることから、「良縁が来るように」という願いが込められていると言われます、また、丸い形から、「何事も丸く収まるように」という意味も込められています。

 当初はお手玉のように上に投げて取る「あげまり」という遊び方でしたが、よく弾むまりができてからは地面について遊ぶ「つきまり」が主流になりました。

 これに対して、屋内の遊びとして、男の子の代表的な遊びに「剣玉」「達磨落とし」があり、女の子には「お手玉」があります。なお、室内で男女を問わず、家族みんなで遊ぶ傾向が強いものとして、「福笑い」「「歌留多」「百人一首」「双六」といった物が挙げられます。

  (6)けん玉

 けん玉は日本発祥ではなく、起源はフランスや中国など諸説があります。日本には江戸時代に伝わりました。当時は棒の上下に大小のお皿が撞いていて、そこに糸で繋いだ玉を乗せて遊ぶ、剣と玉の部分しかない玩具でした。それを改良して皿部分を取り付け、現在のけん玉が作られたということです。

 もともとは、お酒の席での遊びとして、大人に楽しまれていました。それが、明治時代に文部省(当時)が児童教育解説書の中で剣玉を紹介したことで、子供の遊びとして親しまれるようになったといわれています。大正時代に入ると、現在の剣玉の元になった「日月ボール」が発売され、昭和期には子供達にとって身近なおもちゃとなりました。

 剣玉が正月遊びとして定着した理由ははっきりとはしませんが、古くからおもちゃの定番として親しまれ、手先の器用さを競い、練習すれば誰でもうまくなれること、更に様々な技が次々に生み出されることなどが関係して、夢中になる子供が増えたのではないかと思われます。

 けん玉は競技としてさまざまな技があり、日本けん玉協会では、技ごとに10級から6段までの認定を設けています。

  (7)達磨落とし

 だるま落としは木片を積み上げ,一番上に置いただるまが落ちないように木片を小槌で叩くゲームです。だるまは、禅宗を伝えたとされる達磨大師をモチーフにしています。

 達磨大師が座禅した姿に作った張子製の赤いだるまは縁起物として知られ、倒れてもひとりでに起き上がる人形として願掛けに使われてきました。お正月にはだるまの人形に願を掛けて片目を入れ、願いが叶ったらもう一方の目を入れます。

 だるま落としはひとりでも複数でもできる遊びで、一番上のだるまが転ばないようにという願いを込めながら楽しめる遊びです。

  (8)お手玉

 お手玉は、小さな布の袋に小豆などを入れて作られます。何個か両手で持って上に投げては受けながら遊びます。その由来は古代ギリシャに遡り、当時はお手玉ではなく羊の距骨(かかとの骨)を使って遊ばれていました。「アストラガリ」と呼ばれる遊びで、インドや中国を経て日本に伝わりました。

 平安時代には石を使った「石なご」遊びが一般に広がり、江戸時代に入ってから袋の中に小豆や大豆などを入れたお手玉の形になったとされています。

 手を使うお手玉は脳を刺激し、集中力も養います。子どもの頃から遊ぶことで手先を器用にする役割があります。近年は子どもの遊びだけでなく、大人の脳を活性化する方法としても注目されています。

  (9)福笑い

 福笑いがいつどこで始まり、どんな目的を持っていたのかははっきりしません。ただ、江戸時代後期には広まっており、明治時代には正月遊びとして定着したようです。

 ひょっとこや、の顔などの面の輪郭だけが描かれた台紙に、眉・目・鼻・口の形の紙片を目隠しをした者がそれを適当に置いていく遊びです。出来上がった顔は、並べる者が目隠しをしているため、とんでもない場所に置かれることがあり、その出来上がりの顔立ちの面白さをみんなで笑って楽しみます。「笑う門には福来る」というように、新年早々笑いがこぼれるのがめでたいとされ、江戸時代から正月の子どもの遊びとなっています。

 福笑いに岡目、ひょっとこ、おたふくなどが使われる理由もはっきりとはしません。ただ、これらが福をもたらす縁起物として、人々簿生活になじみ深いものとされていたことから、親しみを込めて使われるようになった之土楼とされています。

  (10)

 歌留多には二つの由来があるようです。一つは平安時代に貴族の間で行われていた「貝覆い」と呼ばれる物です。貝覆いは、大ハマグリの貝を2枚使って、それぞれの上に上の句と下の句を書き、ぴったりと合う組み合わせを探すという遊びだったようです。これが今の百人一首に通じる「歌歌留多」です。

 もう一つは、16世紀頃の室町時代に来航したポルトガル船の宣教師達によって伝られた「南蛮歌留多」です。ポルトガル語で手紙やカードを意味する「かるた」が語源だと言われています。日本で親しまれている「いろは歌留多」や「歌歌留多」とは異なり、トランプに近い物だったとぴわれています。

  室町時代には、日本独自の「うんすんかるた」(ポルトガル語で「カード」という意味の「カルタ」)が誕生し、それが平安時代に貴族の間で行われていた貝合わせという遊び(貝の裏に絵や歌を書いたものを並べて、ペアになる貝を当てる遊び)と結びついて、後にかるたになったといわれています。

 昔の人の知恵がこもった「いろはがるた」は、江戸時代後期に、子どもがひらがなやことわざや生活に必要な知恵を、遊びながら覚えられるようにと一種の教材として考え出されました。

  (11)百人一首

 百人一首は、百人分の歌を集めた歌集のこと。原型は鎌倉時代の歌人である藤原定家が、百人の歌人から優れた和歌を百種選んだものでした。天皇をはじめ、鎌倉時代の順徳院まで、古今集や新古今集などのから選ばれており、平安王朝時代を代表する和歌が集められています。

 もともと宮中の遊びだったものが、江戸時代の木版画技術によって「絵入りの歌がるた」として庶民に広がりました。正月は子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたということや、江戸後期以降には、百人一首のためだけの会を行うことがしばしば見られたこともあり、お正月に楽しまれるようになりました。百人一首は、鎌倉時代の歌人が100人の歌人の和歌を1つずつ選んだもので、宮中の遊びとされていたものが江戸時代になって庶民に広がりました。

  (12)

  双六は、最も古い遊びの一つであり、インドに起こり、奈良時代頃に中国を経て日本へ伝わり、貴族のあいだで盛んに行われました。もともとは「盤双六」というものでした。これは二人が向かい合って座り、白と黒の持ち駒で、相手の陣地に攻めていく早さを競うゲームだったようです。

 現在主流となっている双六は、「絵双六」と呼ばれ、これは盤双六の影響を受けて作られた、日本独自の物のようです。江戸時代になると、絵双六が流行し、東海道五十三次を進んでゆく「道中双六」や人生にちなんだ、「出世双六」といったような簡単に遊べるように工夫した絵すごろくがに人気を呼び、お正月などに親しまれるようになりました。何人でも参加でき、簡単に遊ぶことができる双六は、お正月に家族みんなで楽しめ、その年の運だめしにもなるため広まったものと思われます。

 なお、純粋に遊びとは言えないかもしれませんが、書き初めも正月に行われます。書き初めは、平安時代の宮中における「吉書の奏」という行事がルーツです。吉書の奏は、改元・代替わり・年始など、ものごとがあらたまった節目に、天皇に文書を奏上するというものです。本来は行政手続きなのですが、内容は儀礼的で、政治がつつがなく進行しています…という慶賀を述べるものでした。

 この吉書の奏は鎌倉・室町幕府にも引き継がれ、「吉書始め」という新年の儀礼行事として定着します。そのときの文書は、吉書奉行がすべて清書したそうです(もちろん毛筆で)。

  江戸時代になると、この吉書始めが庶民の間にも「おめでたい新年に書道(習字)をする」という行事となって広がりました。子どもたちが通う寺子屋でも書き初めが行われていました。この時代は「筆算吟味」といって、たとえば幕府で要職に就くための試験科目は「書」と「そろばん(計算)」の2科目のみでした。字が上手なことは大事な教養だったのです。

 江戸時代には、自宅で書き初めをする場合、年が明けて最初に汲んだ井戸水(=若水)を神前に供えたあと、その若水を使って墨をすり、恵方に向かって詩歌を書く、というのがスタンダードだったということです。

   現在では、書き初めは1月2日に行うのが一般的です。書道や茶道、三味線などのお稽古ごとは「1月2日から習い始めると上達する」と言われていて、この日を初稽古の日とする習い事は多いようです。

 新年に初めて汲む「若水」は神前に供えたあと、食事などさまざまに使うものでした。忙しい元旦の行事を終えて、あらためて2日に書き初めに使うのは、理にかなった使い方だったのです。

 書き初めを行う目的は、主に次の2つです。

  ①書の上達を願う・・・新年早々に、神聖な若水を使って書くことで、神意にあやかり、字が上手にな           ることを祈願します。

  ②一年の抱負を心新たにする・・・おめでたい言葉や詩歌、または今年一年の目標や抱負を書くことで、           行動を新たにするという意味があります。

 できあがった書き初めは、飾って読み返し、気持ちを新たにするといいでしょう。寺子屋でも学校でも壁に張り出されます。年神様が滞在する期間といわれる「松の内」(1月7日、または15日)まで飾っておくとよいそうです。松の内が過ぎたら、「左義長」と呼ばれるお祭りで、正月飾りなどとともに燃やします。左義長は地域によって、どんど焼き、さいと焼き、とんど、鬼火焚きなどと呼ばれている行事のことです。このとき、炎が高く上がれば上がるほど字が上達すると言われています。最近は消防法が厳しく、近くで左義長が行われていないことがおおいのですが、その場合は、大きな神社のお焚き上げなどに奉納するといいでしょう。決められた手本に従うも良し、自分の決意を込めた言葉を選ぶのも良しです。

執筆日          2024年1月18日(木)                   (January18th・師走8日)